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いっしょに食べたい

バレンタインにチョコレートを欲しいですか?

と男性にインタビューしている番組を見た。

・バレンタインは残酷だ。男の子は小学生のころから辛い思いをしている。

もらっただの、もらわないだの…。嘘をついたり、過剰に得意気にふるまったり。こんな悪しき習慣はないほうがいい。

(笑)

・義理チョコですけど、って冗談言いながら渡されてもうれしくない。

 

など、バレンタインデーに対するネガティブな意見もあるなか、建設的な意見(!)があった。

 

・どうせなら、いっしょに食べたいチョコレートを買って、

「いっしょに食べましょう!」と言ってほしい。

 

これ、すてき。

ご主人、息子さん、お父さん(お義父さん)、友達、同僚 etc... といっしょに食べたいチョコレートを買う。買うのは自分なんだから、相手がどんなのが好きかと同じくらい、自分が食べてみたい、ということも重要だ。

チョコレートをコミュニケーションツールに、楽しい時間を過ごしてほしい。

私が主人といっしょに食べたいチョコレートを選んでみた。

THEO&PHILO Artisan Chocolate(テオアンドフィロ・アルチザンチョコレート)65%ダーク グリーンマンゴー&ソルト

Fjåk SJOKOLADE(フョークチョコレート)68%ダークインディア

SVENSKA KAKAO(スベンスカカカオ)タンザニア74%

すべてミルク成分が入っていないダークチョコレートながら、どれも特徴的。テオアンドフィロはニューフェイス。フョークチョコレートのインディアは、なぜか目立たないのだけれど、はちみつともストロベリーとも言える独特な風味が私は好きだ。スベンスカカカオのタンザニアは、青リンゴのようなとても好ましい酸味があり、ダークチョコレート好きをうならせる。

何種類か用意して、くらべながら食べるのも楽しい。

職業柄、バレンタインは避けて通れないのですが、本音を言えば、バレンタインにとらわれずに、落ち着いて、食べたいときにチョコレートを買ってほしいです。

 

 

暮らしの中で

自立するということは、自分自身の台所を持つ、ということとイコールに近いと思う。

自分自身の台所を持つということは、自分で自分の食生活を何とかしていくことだ。私は17で親元を一度離れたが、いつ自分の台所を持ったか考えてみると、東京サラリーマン生活の始まりがそうだったと思う。

小さな台所に置く台所道具をひとつひとつ買いそろえていった。私は、「暮らしの道具と暮らしの流儀を考える」という会社にいたので、モノの選び方には一家言ある人たちの中でもまれ、台所道具も思案を重ねて選んだ。憧れの鍋を買って、それが土台となった。

その鍋を使いこめば使いこむほどに、「自分の暮らし」というものが形作られていったと思う。

その間に、母の作るコロッケが世界一おいしいと思っていたけれど、世間にはもっとおいしいコロッケがあるのだ、ということを知り、鍋物に入れる白菜はほうれん草を芯にしてくるくる巻いてあるのが当然だと思っていたけれど(白菜もほうれん草も下茹でしてからいろどり良く巻いていた)それが当たり前ではない、と知った。

ときどき母に電話してレシピを訊くこともあったけど、自分の生活には合わないことも多くて、結局は自分なりの定番ができていった。

上京した娘がほどなく、ミートソースの作りかたを訊いてきた。ストーリーズにあげられた初めての挑戦の写真は、野菜の切り方や火のいれかたが今一つで、冬に帰省したときに、

「ミートソースいっしょに作ってみる?」と言ってみた。

娘の答えは、お母さんのミートソースがいちばん好きだけど、その作り方を聞いてもたぶんそのまま作らないと思う、何回も自分で作りながら何となく形になるからそれでいい、

という内容だった。

それを聞いて、

あー、娘は自立しちゃった!

(少なくともしかけている)

と思ったのだった。

 

私の小さな店を選んでチョコレートを買ってくれる皆さま。

いつもありがとうございます!皆さんの暮らしに、食生活に加えていただけるということがとてもうれしいです。

最初に買った鍋。琺瑯が剥げてきたけどまだ現役。新宿伊勢丹の家庭用品売場で、セールにはなっていたけど高くて、すごく迷って買った。持ち帰るのも重かった。

 

 

 

 

 

 

 

弁当の国

水曜午後、わたしはどきどきしながら新宿通りを歩いていた。

「ベントーランド」と題された写真展に向かっていた。

わたしの大切な友達、ライターの阿部直美と、ご主人の写真家、阿部了さんが20年以上続けてきた、“一般人の弁当の写真を撮る”というライフワークを見るために。それは、ANAの機内誌「翼の王国」のお弁当の時間や、NHK「サラメシ」のお弁当ハンターとしてたくさんの人に知られることになったけれど、ここまで来るのに道のりは平坦ではなかったはずだ。

ふつうの人のふつうの弁当。人の数だけ、それぞれの昼があり、写真をみるうちに、自分の中の弁当の記憶がよみがえってくる。今回は写真にキャプションもなく、何を想像するかは見るほうに委ねられていた。

このライフワークを支えてきたのは彼女の文章によるところも大きく、ぜひ「お弁当の時間」として書籍化されている二人の共著も多くの人に読んでほしい。

最終日に行ったので、写真展は15時まで。わたしは撤収を手伝う気満々だったのだが、それはプロがやってくれるとのこと。わたしたちは再会をよろこび合い、楽しい時間を過ごしたあと手を振って別れた。

人生は、もう会えない人に対して、

ああ、あれが最後だったなあ、と思うのがいちばん切ない。

50を過ぎた今、そうならないように、また会えますように、と全力で祈る。

そして、昨日のように、えいやッと新幹線に飛び乗るようなこともできる瞬発力を無くなさないようにしないと。

プロの仕事は早い

本を選ぶ

骨折してリハビリの病院に入院中の母のために、一週間に一回本を届けている。一度、兄が婦人公論を買って届けたら、

「あれは特集がおもしろくないから捨てちゃったの。だって、介護についてなのよ」

と憤慨したようすで、介護からあまり遠くないのに、とくすっと笑ってしまい、

「じゃあ、おかあさんが好きそうな本を届けるわ」と約束したのだ。

今までに届けたのは、5冊ほど。

舟を編む 三浦しおん

編めば編むほどわたしはわたしになっていった 三國万里子

おべんとうの時間がきらいだった 阿部直美

さがしもの 角田光代

さよならは小さい声で 松浦弥太郎

 

わたしの本だなの中から、母が読みやすそうなもの、且つ、好きそうなものを選んだ。

コロナ禍、面会はできないため、ときどき電話をする。すると、

「ありがとう。面白かったわ」と、読んだものから感想を聞かせてくれる。

人生の中で立場は逆転し、わたしに絵本を選んでくれていた母に対して、わたしは本を選んでいる。

 さんざん読み聞かせをしてきた長男が、今はわたしに本をよんでくれる。ときどき、本当に気が向いた時、ソファでごろごろしている私に、

「おかあさん、読んであげようか」

と、要は、自分が気に入った短編を自分が読みたいのだ。その証拠に、息子の読み聞かせにはサービス精神がほとんどなく、もごもご読んでいるかと思えば笑ってしまい、聞いているほうはいまひとつ入り込めない。

まあ、いいんですけどね。

わたしも、小学校での読み聞かせボランティア歴が長く、あれはとにかく淡々と読むことがポイントなのだ。情感たっぷりに読んではいけない。

子どものイマジネーションが広がるのを妨げるのはタブーだ。

でも、わたしはよく、怖そうなグリムやアンデルセンを図書館で借りて来て、

情感たっぷりに自分の子どもたちに読んでやった。

ラプンツェルとか怖いですよ。息子はいつもヒーッと震え上がっていた。

 

わたしの枕元の本だな

 

そして今、わたしはチョコレートを選んでいる。だれかのために何かを選ぶというのは、手伝っていても興味深い。チョコレートをどんな人のために買おうとしているのか聞かせてもらって、いっしょに選ぶのも何とも楽しいひと時だ。

 

 

 

 

 

お日さま

なかなか読み進めないでいた、「クララとお日さま」を読了しました。

 カズオ・イシグロはとても好きな作家です。

「わたしを離さないで」は、好きすぎて何度も読みました。映画もよかった。My name is Kathy H. と、物語の始まりの文字をたどると、頭の中で映像が自然にうかぶほど。

カズオ・イシグロは、SFと分類される小説でも登場人物の人間性(AIであろうとクローンであろうと)の描写が切ないですね。私は、SFはジャンルとして好きではないけれど、イシグロ作品は、SFだと後になって気づくくらいhumanityがつまっています。

「クララとお日さま」は、タイトルどおりお日さまの光がキーになった話です。人型のAIのクララは太陽光で動くという設定ですが、太陽の光はクララにとっての希望の象徴のように描かれています。

太陽の光は恩恵でもあり狂気でもありますね。 朝日が差し始めるのに活力が湧いてくる日もあれば、容赦なく注ぐ朝日に待ち受ける一日を思い気が重くなる日もあります。お日さまをどんなふうに感じるか、そのときの心もちを表しているように思います。 今日は、世間一般よりはずっと遅い仕事始めで、朝起きて気が重くなかったといったら嘘になりますが、そこは年の功で乗り切りました。

本を一冊読み終えた、ということが、ひだまりのように心の中で一点あたたかい。やはり読書は必要です。

日が沈む佐鳴湖。以前一周走っていたのが信じられないほど錆びついています。ウォーキングからまたスタート。

自分のからだに、

今年は少しずつメンテナンスするから、もうしばらくよろしくね、

とお願いした新年でした。

楽しいですか?

先日何気なくテレビをつけたら、Eテレで「読書の森へ 本の道しるべ」という番組をやっていた。ヤマザキマリさんの回だった。自身の本棚を見せてくれながら、おすすめの本を紹介するという内容の番組の中で、「マンガ描くの苦しいですよ…」という発言が飛び出し、私は、そう、ああやっぱりね、と思った。

なぜなら、私も苦しいからだ。

「日々を楽しむ」とか「好きを仕事にする」とか、とかく「楽しい」ということが美徳とされ、楽しく生きていなければいけないような風潮が私はあまり好きではない。もちろん、今自ら選んだ仕事をしていて、楽しさを感じる瞬間がないわけではない。楽しくない、というわけではないのだが、このニュアンスが通じるでしょうか。

「やりたいことがあって輝いている」ことがいちばんですか?

やりたいことがない時期があったっていいじゃん。私は、苦しいけど、だましだましやっている。後ろ向きになる日も、やさぐれた気持ちになる日もある。あそこまで走ったら歩いていいよ、やめていいよ、と自分にだまされたふりをする。

一方で、なぜやめないかというと、うーん…。

尊敬する糸井重里さんがうまいことを言っていた。20年前、何を考えて過ごしていましたか、という問いに対してこう答えていた。

「このままじゃ、このままだと思った」

このままじゃダメだ、とも違うこの言葉の捉え方、私はすごくよくわかる。

このままじゃダメってわけじゃないけど(何とかなっているし)、私がこのままでいいや、と思えば、非の打ち所がないほどこのままでOK。でも、このままでいいならずっとこのままで、このまま変われないのだ。だから、ちょっと苦しくても、(まあ、ちょっとだけならやめるのやめれば)と、やめるのを先延ばしにしている。

さすがです、糸井さん。

今年は冬休みは長めに取らせてもらうことにした。気力が尽きてしまう前に。冬休み課題図書として、ヤマザキマリさんおすすめの本を一冊読んでみようと思う。

 

私の本棚(の一部)。

 

 

 

 

チョコレート通貨

 ときどき、

「スーパーで売っているようなチョコレートも食べるんですか?」

と訊かれます。クラフトチョコレートを売ってるくらいだから、大量生産される大手メーカーのチョコ(インダストリアルチョコレート)は食べないですよね?、とみなさん思うらしい。

食べます。

私は自分が売っているチョコレートが大好きですが、市場動向も興味あるし、どういう味だっけ、と思い出すために食べることもあります。

 

 明治さんのMeltykiss(メルティキッス)も店頭に並び始めるとつい買ってしまう。メルティキッスは私にとって、とても思い出があるチョコレートなのです。

 長女がまだ家にいた頃、よく長男に苦手科目を教えてもらっていました。教師志望の長女は、教えることがとても上手なのです。そんな彼女を労おうと、ある日ユーモアをこめて、

「明日さぁ、わるいけど、受験対策の仕上げに音楽みてあげてほしいんだけど…、メルティキッス1箱でどう」

と、もともとおやつにあげるつもりだったメルティキッスを差し出しました。そこに可笑しみを感じたらしく、「うーん、まぁいいよ」と引き受ける長女。

冬休み、メルティキッスは私と長女の間での通貨と化し、今日は「1メルティ」でどう?、「2メルティ」で頼む!といったような具合で、取引が行われました。

主要教科はともかく、音楽、家庭科、美術がからきしだめだった長男が志望中学校に合格したのは、長女の冬期集中講座があってこそ。長女は見返りに、ほどほどの数のメルティキッスを蓄えました。 

古代、カカオはとても貴重で、お金として使われていたこともあったそうです。チョコレートも、他のお菓子とは違う特別感がありますよね。

自分への労いに、「あぁ、今日は1フョーク分は働いたわ」などと、ごほうびをあげるのもいいですよ!

※フョークチョコレート ノルウェーのBean to Bar 

 

さて、食べ物にまつわる思い出でもうひとつ、

読めますか?

小学校低学年のころ、長男が図工の時間に作った、「今日のごはん」マグネット。

 実物はもうさすがにないのですが、画像が残っていました。

マグネットのマスコットを作る図工の授業で、クラスではくだものや動物、乗りものなどを作るのが主流の中、鼻息荒く、得意げに持ち帰ってきました。

今でも変わりませんが笑、私の顔を見ると、

「今日のごはん何?」と毎日うるさいので、

「そんなに、ごはん、ごはん、言わないで。おかあさん、作るのいやになっちゃうわ」とあしらっていたら、

「ぼく、もうきかないよ!これに貼っておいてね」

と満面の笑みでプレゼントしてくれたのでした。

息子よ、すまん。

でも、私は君にごはんを作ることが大好きです。

 

 

今どきじゃない

 先週、商店街の会合がありました。私も商店街の会員ですので、今回初めて出席。サザンクロスは浜松で唯一のアーケードがある商店街、できたのは昭和43年だそうです(出典に間違いがなければ)。商店街に住むおばあちゃんによれば、年末には買い物した荷物を頭の上に載せて歩かなければならないほどの人出たっだとか。ノネットが入っている「中村文具店」さんも、ご夫婦でいっしょにご飯を食べたことがないほど忙しかったという話を聞いたことがあります。

 いまこの商店街は、このまま朽ちていくのを看取るのか、踏ん張って何とか回復させていくのかの過渡期に来ていると感じます。

 それでもノネットに来てくれる人はどんな人なのかと、先日取材を受けた際、自分なりに考えてみました。シャッター街ですから、ウィンドウショッピングに入った、とか、通りがかりに目についた、とかそういった方はほとんどなく、(ノネットに行くぞ)と決めてご来店いただく方がほとんどです。これは非常にありがたいことです。チョコレートに対する知識欲を満たしてくれたり、店主と会話して購入するという体験を求めている方が来店する、ということも言えると思います。

 しかし、これは、ひと昔前の個人店では自然に成り立っていたことですね。店主の顔(文字どおりの顔とプロフィール的な顔)が見える店だからだ、とも言えるかもしれません。

 あまり今どきのやり方ではないのかもしれませんが、その「今どきじゃなさ」がかえって新しいのかもしれない、とも思います。私も、それに値する品揃えや接客ができるように勉強していかなければ。

 さて、話は逸れますが、うちの子たちはあまり今どきではありません。ゲームもやらないし、スマホが欲しいと言われたこともない。スマホは、高校入学と同時に親の利便性のために買い与えましたが。

 私もあまり今どきだとは言い難く、昔から、自分は自分、人にどう思われようと関係ない、というところがあります。親に「ふつうはこうだ」と言われることに反発して、ふつうっていったい何?、ふつうじゃなきゃいけないのか?と思い続けてきました。

 そんな母親のもと育ったから子どもたちは今どきじゃないのかな、と考えることがあります。私は、子どもたちが小学生のとき、みんなが持っている図工セット(絵具やパレットや折り畳みのバケツが収納できるバッグ)を買い与えませんでした。代わりに、銀座の月光荘画材店のバッグを持たせていました。みんなといっしょじゃなきゃいけない、と思わなかったから。こちらのほうが商品として良いと思うから。

 それがイヤだと言われたことはないけど、もしかしたらみんなと同じ図工セットを持ちたかったのかもしれない。そんな母親のもと育って無理をさせてしまった部分もあるのかな、と、いま誰にも使われることがないバッグのホルンのマークを見ながら思います。

 でも、私もつい、「ふつうは…」と言いそうになってしまうことありますよ。(おっと、いけない)と「一般的には…」と言い直します。

 

書けば書くほど

昨日は、鴨江アートセンターで行われた浜松市主催の多文化共生イベント「世界のクラフトチョコレートを食べ比べ 世界のチョコレート事情」にスピーカーとして参加させていただきました。私の拙い話を熱心に聞いていただきありがとうございました。

ノネットをオープンさせて5か月、色々な場面でお話したり文章を書いたりすることがあり、そうすることによって自分の考えていることが整理され、言葉にならなかったことが浮き彫りになってくるのを感じてきました。ブログを書くこともそうです。

ほとんど更新することがなかったブログをまた始めようと思い立ったのは、私の友人のおかげ。

サラメシや翼の王国(ANA機内誌)でもおなじみ、今や「お弁当の人」となったご夫婦、妻のライターの彼女と出会ったのは、17歳のときに交換留学生として渡米して、乗り継いだサンフランシスコ行きの国内線の中だった?

 彼女がお弁当ととことん向き合って、現在につながる過去の自分とも向き合って、こんがらがった糸を解いていく過程が書かれた本を読んだのがきっかけです。

 これを書くのに5年かかったって言ったっけ?

 そして、最近読んだ、ニットデザイナーの三國万里子さんのエッセイ、

「編めば編むほどわたしはわたしになっていった」、も書きたいと思わせてくれました。

編めば編むほどわたしはわたしになっていったことを書くことで、またわたしがわたしになっていく。それを読んだ人も、わたしはわたしでいいんだ、と思えるすてきな連鎖です。

 そうそう、「おべんとうの時間がきらいだった」の中に私もちょっとだけ出てきました。わかった人がいたらすごい!粗品をあげたいくらいです。

 

ネクストレベル

ワールドカップの対ドイツ戦、いつも早く寝てしまう主人も、今日は試合後のインタビューまでも興奮冷めやらぬまま観ていました。私は…、主人の予想どおり、試合開始後5分でソファで寝落ちし、主人の「おーーーー!」とか、「ウソだろ⁉」という絶叫のたびに何となく起きたものの、試合が終わるまで寝続けたという。でも、インタビューは全部観ました。

サッカーに全く詳しくない私から見ても、新しい世代のサッカー選手たちが、正に next level なのは疑いようがありません。感心したのは、インタビューでの受け答えが冷静で、自分や試合を俯瞰して分析していること。皆が口にした「戦術」、に対する理解度がすごく高いんだなぁ、ということ(寝ていた私には全くわからない)。そして、自分の考え、感じたことをきちんと理論的に話せる、というのは、すごいなと思いました。

これは、私も見習わなければならないこと。仕事において、商品についてはもちろん、自分がやろうとしていることを説明する機会が多いのですが、自分の軸を持って伝えるということは本当に大事なことですね。それをスマートにやってのける若者に刺激されました。

スタジオで解説していた武藤くんが、ひそやかに悔しそうだったのが印象的でした。出たかっただろうなあ。彼もニュータイプですね。舞ちゃんの航空学校にいそうだ。。。

これは私のチャームですが、サッカーボールの右側は何かわかりますか?

そうです、チョコレート。

買ったのは、まだ子どもたちが幼いころ。その頃、2人が将来なりたいものは、サッカー選手とショコラティエでした。